2014年1月28日火曜日

あれから

ある日、家に帰ると。
遠くに住む祖父がいて。

「あれ、来てたんだ。」
ふと気づくと、奥に母方の祖母が。

違和感。父方の祖父と母方の祖母が一緒に、何か変だな。

そうか、なにも知らんのか、、。

と、祖父、押し黙った雰囲気。
はしゃいだ妹のエレクトーンが痛々しい。

もう何も聞けない雰囲気に狼狽えながら部屋を出ると、普段男らしさを追求しているかの様で、常に涙を拒絶していた次兄が目を拭っていて。


尋常じゃない事態の予感。誰か、どうかしたのか。ここに居ない誰か、、、。
自宅で何を待っている?緊急性はないの??



しばらくの後、母と長兄が。
大きな箱と数人の黒服と共に、玄関に。


ああ、そうか、そうなのか。
涙が、涙だけが。もう、全てが涙で。



20年前の3月。僕は13歳だった。



父の遺書は、その時に見ただけだ。よく覚えていない。
命日もちゃんと覚えていない。
日記などに目を通した事は一度も無い。
理由もよく知らない。

ただ、僕は職業だと思った。
父が自分の職業を心から楽しんでいるようには思えなかった。
むしろ、苦しんでいたように感じていたから。



当然ながら、彼の死は残った家族に大きなインパクトを与えた。
価値観の大崩落が起こった。

でもそれは僕にとって解放でもあった。自分の人生を自分の手にしたようでもあった。

僕は、国公立の4年制以上の大学に行くと定められていたと感じていた。
お勉強はそれなりに好きで得意だったけど。成績の為の勉強は終わりがなくて苦しかった。
学校の毎朝が苦しくて、でも美術の授業の日の朝だけはワクワクして目覚めて。

毎日が、美術の授業の日の朝のようにしたい、そんな仕事をしたい。そうじゃないと僕も生きていけない。


14歳になったころには、ものづくりの仕事に就きたいと思っていた。
茅ヶ崎の山の中で育った事もあって、木を素材としたものづくりを。

まずは木工全般を学ぶために旭川に。

でもそれは、茅ヶ崎を脱出したかったからでもあって。
父の死後、家族は精神的結束が完全に失われて。
永遠に喪に服すかのようで、いつも心が雲で覆われているかのようで。

暗く苦しかった茅ヶ崎での最後の5年間、中学と高校の時代、もちろん楽しい思い出も一杯だけど。


ほんの数年の間だけ旭川にいて、また茅ヶ崎に帰ろうと思っていた。
家具屋として最短距離を走って独立して、故郷に錦を飾りたいと思っていた。


思えば、何の後悔も無い。
ずっとその時その時で最善を尽くしてきた。

旭川に来た事、家具屋になろうと決心したこと。
東川のメーカーで経験を積ませてもらった事、技能五輪の国際大会で負けた事、23歳で結婚したこと。
埼玉の家具屋に修行に行こうと思った事、慰留してもらった事。
勤めていた会社を承継したいと決心して全力で仕事に向き合った事。
双子が生まれて、会社を辞めたこと。
転職を本気で検討した事、だけど家具屋に戻ろうと思った事、旭川で独立した事、工場シェアしたこと、そして統合した事。

全て必要な事だった。

そしていつの間にか家族の心も戻り、僕が茅ヶ崎に帰れば時間を無理にでも取って集まってくれる。

そんな経験を積んで、僕は強い自信を持つ事ができる。
完全に自己肯定できる自分のきっかけは、家具屋という職業を手に入れる事ができたのは、父の死があったから。


悲しい事は、経験したくないけれど。
今でも、仕事中や運転中に涙が出る事もあるけれど。
忘れる事も乗り越える事もないまま受け止めて。それも含めて僕が存在しているのだから。



命がけで仕事をする前に、もう一つ命を費やしている。



あれから20年、旭川に渡って15年、大きな節目。

故郷での初の個展は、僕にとっては大きな意味があるのだ。




0 件のコメント:

コメントを投稿