2017年7月6日木曜日

IFDA 2017 そしてデザインコンペティション

10回目となったIFDA(国際家具デザインフェア旭川)、そしてデザインコンペ。 

先輩方が30年必死に継続してきた旭川の宝物、何としても11回目以降も継続させて欲しいという強硬論を唱えている立場もあって、今回は苦しい試作製作を2作品担当。
 gauzy calm worksの今回の担当者は若きエースの現工場長の粟村と前工場長の原。 

粟村が担当した作品のデザイナーは大御所の今崎務 氏。
知る人ぞ知るクソジジイではあるが、しかし憎みきれない愛嬌と魅力を持った、やはり偉大な方。 

gcwのような旧世代の加工機械しかない工場でも、CADとの連動が求められるために図面補助で旭川のビッグネームの一人、中井 啓二郎さんに間に入ってもらって。

 その中井さんをとことんやっつける今崎さんと若手のgcwとのものづくりは、奇妙な連帯感を持って進めることができて。
 とはいえ超繁忙期の中での試作製作(閑散期と繁忙期での月間売上高の差は締め日の関係もあるが8倍にも!)、工場長の責務にある粟村は「工場の生産を落とすわけにはいかない」と自ら時間外に試作製作。

 工場長に就任した年に、マネージャーとしてもプレーヤーとしても最高のパフォーマンスを発揮した。
実務経験若干2年そこそこが、しかし工場の管理もIFDAの試作も見事にこなした。
天才という言葉が浮かぶほどの活躍ぶり。 

また、記録が少ないが(カメラの盗難もあって)原の試作も素晴らしい出来栄え。
 実は彼も、本格的に椅子を製作するのは初めて。すでにパートタイムの彼は昼間の製作で少し時間はかかったが、見事に作り上げた。 
時に必要以上とも感じるほど精度を求める彼は、やはり作り手として非凡なものを持っていると確信できる。 

それにしても、今年80歳の今崎さん。
 若手の登竜門とも言われる旭川のコンペに果敢に挑戦。
賛否はあるかもしれないが、未だ挑戦者という姿勢は見事なもので、見習わなくてはいけない。 

「本来なら僕こそ審査委員長にふさわしい」
と言い出す今崎さん。 

「それがなぜそうならないか、わかるか??」 

と問う夜の居酒屋で、一杯のビールを数時間をかけて飲みながら大好物のホッケをほうばる大御所は

 「それは人徳だよ。僕には人徳が無いんだ」 
と結論する。
 返答に困って思わず笑ってしまたが、ああこの人は不器用なともろもあるがまっすぐな人なんだなと感嘆する。
 そしてもちろん、食事の支払いは一切しない。

 試作はまず原寸モデルを作成して各所を検討し、それから本格的な試作を。
 修行したインテリアナスで学んだとおりの工程。

 デザイナーの印象としては、とにかく粘る。非常に粘る!

打ち合わせをして方向性を確認した翌日から数日後に、それを覆す連絡が。 
出来るだけデザイナ−の意向に沿ったものを作り上げたい、というのが本当のところの製作サイドとしての思い。 
しかし時間と予算の制約上、一度のモックアップの次には提出用の作品の製作なのだ。 
強度的には安全圏にいたいというのも製作サイドの本音。 

それが、提出当日の午前中に電話。 

「後ろ脚なんだが、どうしても気になってな。あれじゃあ、やっぱりだめなんだよ、あの脚を外して作り替えてくれんか?」

 「その話は打ち合わせの時にしたじゃないですか。それでは強度が不足する。だからこのような形状、構造にしたと説明しました。ええ、できますよ、そのような脚をつけることは。でもそれは壊れる椅子です、座れない椅子です。今からでもこの脚をぶった切って、ちょっこと脚みたいなのをつけることはできますよ。でもそれは、この椅子をぶっ壊すのと一緒ですよ」

 という問答を、もう提出期限の数時間前に。 

全く収益にならない試作製作の中で、工場の大事な取引先の厳しい納期の製作に追われまくって殺気立っている時。
 デザイナーさん、きっと、本当にずっとこの椅子のことを考え続けているんだろうな、と感心もするが。

 試作の現場は、ものづくりの難しさはもとより、デザイナーとのスリリングな戦いも繰り広げられるのるのだ。 

そんなこんなでも、作品はちゃんと期限に提出。 

結果は、本当に残念ながら担当した2作品とも受賞を逃して入選止まり。

 原くんが製作したチェアは、裏話によると今回新設された「長原賞」に最後まで競ったそう。 
これは金賞をとれなかった以上に本当に悔しく、少し泣いた。

 審査後には、東京の今崎さんの自宅兼事務所に訪問も。

 今崎さんという人柄と触れるこたができたということが、きっと一生の思い出となる気がして。


さて、IFDA、デザインコンペの試作製作。

 僕自身の取り組みは勤め時代からの2005年から。 

若手による仕事の時間外での個人的な取り組みとして試作をするようにとのお達しが会社からあり、任されることに大きな喜びを見出していた僕はいきなり2作品を一人で担当。

 24歳、土日祝日はもとより昼休みも惜しんで試作を。
 成型合板の実験を繰り返して。 

2008年、部下後輩を率いて3作品を。
 命を落とすのではと思うほどの厳しい日程での試作。
当時の実感として、会社からの援助は皆無。妻が何度も、夜中に東川まで全員の分の差し入れのおにぎりを持ってきてくれた。 ああ、本当に、勤め時代から支えてもらっている。

この時、一ヶ月での時間外は本業と合わせて200時間を超えたのではいか。
慎重にデスクグラインダで成形中に意識を失って安全装置を摘出した機械を膝に落としたことを覚えている。

 あの時の仲間は、戦友として特別の思いがある。 

この年、同い年の後輩が担当した作品が金賞に、僕が担当した作品は銅賞に。 


2011年。独立直後。
 全く資金に余裕のない時に、 「とりあえず試作検討会議に顔を出すように」 とは親分、ナガハラさん。

試作検討会では、苦しさが十分わかっているから手をあげることができずに、吐き気を覚えるほど。

じっと黙ってやり過ごそうと思っていたところ、事務局に見つかって。
「手ぶらでは帰れんぞ」
との声も聞こえて 結局試作を担当することに。

この時、家具組合にはまだ非加盟。
非組合員でなおかつ個人工房での試作受託は僕のみ。

 しかもその直前に手押しかんなに左手中指を噛みつかれ、爪の根元から切断。 
包帯を巻いて試作に臨んだ。 
この時も苦しかったが、やはり良い思い出に。


2014年。 
いよいよ会社の仕事も忙しくなり、試作製作を請け負ったにもかかわらず難しい状況に。

 外部の方にも協力してもらってなんとか形に。 

この時の作品のデザイナーは、一次審査を数点も突破させた若者。
川内 隼人 氏。彼は必ず大物になると確信しているが、彼のキャリアの初期に出会えたことは幸運だと思う。 


そして今回。 

振り返ってみて、IFDAは本当に苦しい思い出。
 3年に一度来る難関。

でも、苦しい思いほど忘れられない良い思い出になるもの。

 だからこそ、人一倍に愛情があるのかもしれない。





 IFDA展示会場の様子。
























試作の様子。








デザイナー、今崎さんが工場に来ての打ち合わせ。











設計協力の中井さんと。








仕事が落ち着いてから、今崎 邸の訪問を。
さすがに、かっこいいご自宅。

やっぱり、すごいじいさまなんだなと。





この後、昼飯を食いに行こうと言ってご友人の老人を誘い(有名美大の元講師)中華料理屋に。
メニューは勝手に選んでくれて、ちゃっかりビールも飲んで。

若干恐縮して頂いて。
そして会計の際にしれっと消える老人二人。

いろいろと勉強になる。







IFDA展示会で作品プレゼンする大御所。






旭川家具の企画展。
長原さん、、、。

やはり、僕は好きだった。
とても大きな影響を受けている。

上遠野徹 設計のご自宅を見たいと駄々をこねて、お正月にご自宅に食事に招いて頂いたことが懐かしい。

「君たちが旭川家具の顔になりつつある。もっともっと頑張りなさい」
と言って頂いたことも。

セミナーや講演会、できる限り参加してお話を聞いてきた。
それまで実用書ばかりで小説は読まなかったが、人生にも大事で、その上仕事にも生きるぞと言われ、司馬遼太郎の世界観には影響を受けていると聞き、僕もその後何タイトルも
司馬遼太郎を読み、今ではほぼ唯一の趣味は読書となった。

もっともっと、いろいろ話を聞いてみたかったな。
毎月あった家具組合の注文部会でも、幹事で精一杯でなかなか話ができずに。
任期が終わったらゆっくり話ができるかなと思っていたのに。













そしてIFDAの軌跡。
僕が旭川に来た1999年。この年もIFDA、3回目の年。

あの時、10回目なんて永遠に来ないと思っていた。
空飛ぶ車が登場する頃のような、非現実的な未来だと思っていたのに、本当にこの時が来るなんて。



























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