昨年10月、カンディハウスの長原さんが亡くなった。
大変な影響を受け、祖父のように慕っていたので残念で悲しい。
最後に声を聞いたのは、その一ヶ月程前に会合に欠席すると電話を頂いたときか、、、。
学生の時、授業の中でクラスに来て頂いてお話しして頂いた。
確か一年生の時だから、1999年だと思う。
ユーモアを交えた楽しい話、家具作りへの愛情を感じ、その人柄も、とても魅力的で大ファンに。
99年から2001年ころまで、旭川の家具業界には大変な倒産の嵐が吹き荒れていた。
その後の資料の中で、100社以上消えてしまったとの記載を記憶している。
故郷を離れて旭川に降り立ち、乗ったタクシーの運転手が初めて旭川で会話をした人だが、
「旭川の家具はもうだめだ、故郷に帰った方がいい」
夢を持って神奈川から北海道に来た18歳の若者に、自然とこのような素敵な助言が出てしまう程に悪い状況。
2年生になって多くの会社訪問をし、多くの訪問先で経営者の方がお話をしていただいたが、明るい話、夢のあるワクワクするような話をする方はほとんどいなかった。
「夢なんか見てるようなヤツが来てもらっては困る」
なんて言われて、若いヤツに夢も見せられないような会社は滅びればいいと思ったものだが。
そんな中でも、長原さんは夢のある、デザインや未来の話を。
卒業作品展では、僕の作った椅子に長く座って話をして頂いた。
籐をどこで入手したのかという問いに答えたとき
「まだ私に知らない事があったか」
というつぶやきが何ともカッコ良かった。
その後も技能五輪に関しての事もあって、お会いする事も多かった。
就職一年目頃に、東京に行く飛行機が一緒で、隣の席が空いていたので横に座らせていただいてずっと話を聞かせて頂いた事は思い出深い。
「企業力はデザイン力」
「経営感覚のある職人」
「マシーンワークとハンドワーク」
「メーカーとして工業製品を」
は全て長原さんの言葉。僕の指針。
独立後も、家具センターに少しずつ製品を展示していったが、イベントの毎にブースに寄って頂いてはアドバイスやお説教を。
Dal Cuoreという椅子は、長原さんに喜んでもらえるような椅子になりそうだとの思いで、クライアントのご要望に応えてデザインした。
一次試作を作った頃に、長原さんが海外のお客さんとうちの工場に来たのだが、試作を見つけた時に目の色が変わったのを感じたことを覚えている。
その後は何度か、まんじゅうなど手みやげを持って
「あの椅子どうなった」
と工場まで来て頂いたり、僕の方からカンディハウスまで図面と試作を持って伺ったり。
一昨年の正月には、ご自宅に招いて頂いて奥さまの料理を御馳走になったり。
家具組合の部会に入ってからは毎月の会合で顔を合わせて。
部会では幹事をしていたので、会費の集金や支払いや給仕で落ち着かずに、あまりお話し出来なかった事が残念。もう少しで幹事の当番が交代だったのに、、、。
部会の新年会は温泉に泊まり込み、その時に麻雀部屋にもお邪魔して。
麻雀に熱中している姿や、いつかのお土産でどら焼きを持っていったら、どらやきが大好物なんだと大喜びして頂いたりとか、人間味溢れていて。
新聞では、
「旭川をものづくり王国に」
という言葉を残したとか。
たしか2008年度、それまで長原さんが若手向けに勉強会を開いたりしていたが、それを承継したのかしていないのか、旭川市で「グローバル人材育成セミナー」というセミナーがあって、当時勤めていた会社から参加させて頂いた。
東京への研修もあった10数回のセミナーだったと思うが、その最後が業界トップの方々を集めた発表会だった。
テーマは自由だったが、僕の発表のタイトルは
「旭川をものづくりの楽園に」
その内容は、ものづくりをしたい人たちが勝手に集まってくるような地域、産業にしよう、世界中からも人が集まれば、旭川に居ながらにてグローバル化だという事。
旭川なら楽しくものづくりができると思えば、夢を持った若者達が世界中から集まって、そうすれば地元でも家具産業を誇りに思うようになって。人が集まれば熱いエネルギーとアイディアが蓄積して、まさに勝手に良い製品や面白い製品、あらたなビジネスモデルがリリースされて、それは結果として必ず商業的にも反映するはず。
その中で
・若い現場の職人のネットワーク(かつてあったという松倉塾への憧れがあったので)を作ってものづくりの思想の共有を
・市立造形学校
・デザインミュージアム
・小中学校からのデザイン教育
という長い目で見た人的開発、しかもそのスキルではなく理念的な内面の開発を訴えた。
講評で長原さんには
「君は無いものねだりだなぁ」
と言われたが、今思えば、業界と産地育成という観点で近いお考えだったのだなと、なんだか嬉しい。
喪失感はあるが、しっかりと受け止めて未来に繋げたい。